【1000年に1回の天災は、無視できないリスクと呼ぶに充分だ】

「1000年に1回の津波だったのだから、原発事故も仕方ない」というロジックで原発を擁護する人を見かけたが、これは統計から見ても、違う。

1000年に1回の地震に、原子炉が稼働した40年の間で遭遇する可能性は、4%ある。オッズで言うと、(テラ銭無視で)25倍だ。これは決して無視して良い値ではないと私は思う。統計で一般的な棄却域とされる5%は割っているが、万馬券に遭遇するより、はるかに高い。

確かに、炉心は地震に耐えたのだろう。予備の外部電源車と燃料タンク、予備の水源プールを高台に確保していれば、技術的には簡単に破局を防げた事故だった。水素の爆発だって、天井に抜気塔を設置するだけで、問題なかった可能性が高い。

事前に打てる手はあったし、警告とみなすべき前例もあった。ディーゼル電力喪失の前例はつい最近もあった。07年の柏崎刈羽では、電源を喪失して、3号機と4号機の冷却設備を共用する事態に陥っていた。そこから、学ぶことだけが、欠けていたのだ。後から払う授業料は、いつだって高くつく。

冷却設備の共有で思い出した。

MITで原子力を学んだ経歴を持つ大前研一氏が、「原発を6機集中していたのがまずかった、分散しておくべきだった」という趣旨の主張をしていたが、これはリスク分散として一面正しいが、間違っている面もある。

集中していたからこそ、事故が起これば、6機分の人員や施設を融通できて、一元的に対応できた(柏崎刈羽と同じだ)。東北一帯に分散していたら、避難指示地域は、はるかに広大だっただろうし、外部電源や放水車の手配も困難になっていただろう。そもそも、福島第一と第二と分散していても、両方とも交流電源喪失に陥って避難指示が出た。管理が東電だったら、どこに設置しても同じだ(ただ、東京湾内に設置していたら、別だったろう)。念のために言うと、分散してれば、取材体制も薄くなる、というメリットは、有る。

意思決定を博打に翻訳してみると、東電の《25倍の馬券が絶対に外れるという博打》は失敗した。そのリスクの多くを福島県民が負うことになった。博打に勝っていた時期の利益は、大半が東京に流れ、負けた損失は、福島県が負うことになる。これは不公正な博打だと、私は思う。

確かに、技術的には、簡単に克服可能な事故だ、という論理は分かる。今回の事故の教訓を取り入れれば、更に安全な原発を作ることは出来るのだろう。だが、事前の機会に学ばなかったツケの大半を、意思決定に参加しなかった第三者が負わされるのはおかしい。


私自身は、3月11日まで、内心では条件付きで原発賛成(核廃棄物処理の明細書を出すという条件で)だったが、考えを改めなければならない。今後の原発の設置と稼働は、原発で利益を享受する人(我々)ではなく、リスクを負う側の人が決めるべきだ。電力会社に学習意欲が欠けていたことが、明白な事実と映像による裏付けを得た今となっては、尚更である。