【国家(組織)が衰退する局面における、個人の処世術について】

 今日は、不快な話なので、先にお断りしますが、以下は、処世術の一面を、判りやすくするための極論であって、実際の私の考えや行動、好みや信念とは違います。意図的に歪めて書いています。

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 まず前提として、組織が犯す、悪政、失政のツケは、常に末端構成員が払うのです。

 アメリカだろうが、北朝鮮だろうが、戦略レベルの不合理は、常に末端構成員たる国民が償うのです。国民は、拒否権など無い、国家の連帯保証人なのです。「国民」という概念が生まれる前からそう決まっているのです。

 国民が国家の主権者となる、そのはるか以前から、国民(平民でもいい)は国家の連帯保障人と相場が決まっていました。民主主義だろうが共産主義だろうが帝国主義だろうが王政だろうが、同じです。

 昔の庶民は、命を賭けて反乱や暴動を起こすか、ただ耐え祈るだけの2択でした。しかし、21世紀の現在、国民が、その連帯保証を逃れる術は、あと2つあります。

 一つは亡命。もう一つは、国家の意思決定に参画することです。前者は別の国の連帯保証人になるという、消極的解決策ですが、後者は、高い確率で「連帯保証人階級」からの脱却が可能です。今日は、後者の話をしたいと思います。

 「国家の意思決定に参画する」というと、補足が必要ですが、国家の意思決定に参画する側が、致命的な損害を負わずに済む実例は多いのです。75歳以上の方は、心あたりがあるのではありませんか? 戦争のツケは、基本的に戦争を始めた人ではなく、庶民が負うのです。死ぬのは、「死ね」と言った側ではなく、言われた側なのです。軍人や軍人の遺族には、恩給が支払われますが(基準は軍の階級と勤続年数でした)、家が丸焼けになろうが、一家皆殺しに遭おうが、民間人には、ビタ一文出ないのです。核兵器による後遺症が例外的に認められていますが、それだって医療補助であって、生活補助ではありません。

 いくら国や県が借金を作っても、借金を払うのはあくまで有権者であって、借金を作った側ではありません。地デジが経済的に非効率なシステムであっても、その旗振り役が責任を負わされることはありません。法科大学院制度が、司法浪人を量産しても、それは量産された側の自己責任で処理されるのです。道路予算でミュージカルをやる剛の者だっているのです。その官僚の人生が終わったわけでもなく、そのお金は、納税者が払うのです。

 それが、法律あるいは倫理に照らして、正しいかどうかは、この際、横に置きます。また、内面の動機の正しさや愛国心も横に置きます(これらは摩り替えが利きますからね)。

 今考えたいのは、個人における、勝算の問題です。出世してしまえば、滅多に責任を負わされないのです。たまに戦犯にでもなったら、先輩や同僚が同情して助けてくれるのです。戦犯認定されても、総理大臣になった人はいますし、ノーパンしゃぶしゃぶで引責して日銀を辞めたF氏は、後日、日銀総裁になりました。彼らに責任や罪があったかは別として、路頭に迷う末端構成員とは、確率が違うのです。もちろん、責任を背負った人もいましたが、責任を負った人と、開き直って必死に逃れた人と、どちらが得をしたでしょうか? そして、重大なことに、末端構成員には選択肢などないのです。
 
 さて、国家が衰退する局面とは、連帯保証人にツケが回る局面ということです。国家が繁栄する局面では、どんな生き方をしても、平均すれば元が取れますが、衰退局面ではそうではありません。イスが減っている局面だからこそ、イス取りゲームが始まるのです。

 その国家の破局前夜の、賢い個人のサバイバル術は明らかです。出来るだけ国家の失政に参画し、失政に加担するべく出世することが最も有利な処世術です。そうすることで、国家の連帯保証人となることを免れることが、有効と言える期待値で可能です。国の借金で自分のキャリアや人脈をレベルアップさせることは十分に合法ですし、国が借金をしても、自分が全部払う訳ではありません。批判を受ければ体裁を整えて、法的に報復すれば『良い』のです。『良い』というのは、国家にプラスになるという意味ではなく、個人のキャリア収支にプラスになるという意味です。国家のツケを黙って払う側に甘んじるより、ずっと効率的な選択肢と言えるでしょう。その方が、身近な親族も喜んでくれます。

 国家が失政を犯したら、抗議せよと言う人がいるかもしれませんが、『抗議』の個人における戦術収支は良くありません。悲惨と言って良いでしょう。失政が明らかになりつつある段階では、失政を批判、弾劾するよりも、翼賛したり提灯記事を書く方が、個人の実利は大きいのです。批判で人生を棒に振った記者はいても、提灯記事で人生を棒に振った記者は滅多に居ません。抗議や批判の戦術収支がプラスに転じるのは、完全に失政が明らかになった後の段階(破滅の後)です。

 つまりたとえ『正しい抗議』であっても、個人は、あくまで勝ち馬の尻に乗るべきなのです。これは現在のマスコミの姿勢が証明していますね。それが法律的に、あるいは倫理的に正しいかどうかは、単に、体裁の問題なのであって、個人の戦術の選択の基準となるのは、処世術上の実利なのです。


まとめ
国家や組織が破局した際の連帯保証人は、常に末端構成員である。
連帯保証に晒された平民の選択肢は、4つ。忍従/反乱/亡命/出世。
意思決定側の人間が、破局の責任を負わされる確率は低い。
国家や組織の衰退局面では、意思決定者側に立つことが、最も安全で有利な戦略。
「抗議」戦略は、抗議の内容が正しくても、収支は良くない。

↑こんなことを、ボランティアで言う私は、処世術上の「バカ」ですね。賢い人は、無意識に自分の正しさを確信しながらやってることです。

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私が上記のような憂鬱な妄想を抱いたのは、次のような日ごろの雑感からです。

■個人の処世術上の、戦略収支を無視した改革議論は、破綻する。たとえば、『正しい抗議』をする際には、自分の正しさを考えるだけではダメで、処世術上のトラップを超える方にエネルギーをそそがなければ潰される。

■人間は、単に処世術的に正しいに過ぎないことを、割と本気で、「私は世界に貢献する、正しいことをしているのだ」と信じてしまう(これはアメリカの金融マンを見て、そう思った)。相手を批判する場合は、処世術的に潰すところまで掘り下げないと、相手は自分の非を認めない。

■議論の勝ち負けを決めるのは、論理ではなく、処世術。論理で勝っても、処世術で負ければ、負け。小泉は、論理で負けても、権力者は開き直れば済むことを熟知していた。

■我ら、末端国民は、連帯保証人としての自覚に欠けているのではないだろうか? 

まぁ、このくらいにしましょう。
夜更かしして、ネガティブなことを考えるのは、健康に悪いし、処世術的にもマイナスなので。
おせっかいついでに申しますなら、この文章を真に受けることもまた、処世術的にマイナスです。