【同情と共感のスイッチ:自殺を予告中継した銀行員は罵倒され、率直なネパール人のカレー店には行列が出来た話】

先日、ネット上で自分の苦境をネット上で情報発信した二人。ギャラリーの反応は、冷酷と言って良いほど、対照的だった。

一人は、24歳の銀行員。Ustreamで自分の自殺を中継した。ギャラリーは、自殺を予告した彼の愚痴というか説教に対して、極めて冷たかった。決行後はドン引き。本当に自殺したと産経新聞は報じた。

まとめサイトを引いておこう。
http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-1039.html


一人は、中板橋にカレー店を開いたばかりのネパール人。twitter上で、ひらがなばかりの日本語を使って、率直に、お客さんが来ない恐怖を訴えた。ギャラリーは、極めて好意的。twitterのフォロワーは1万人を越え、店には行列ができた。

http://hamusoku.com/archives/3748124.html

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何が違ったのか? リアルタイムに見ていたわけではないが、私だって、前者を読むと「ムカつき」、後者を読むと「心温まる」。

・だが、この苦しんでいる二人に対する差は、何なのか、何故なのか? 
・前者=嫌な人=不快     後者=いい人=快。この単純さはおかしくないか?
・この2点の正反対のサンプルが、ネット上の世論形成の方向性を決定する、何か重要な因子を暗示しているのではないか?


そんなことを、何時間も考えているのだが、答えが出ない。こんな時間に起きていたくないし、忘れても生活上、問題無いんだけど、この、あまりに正反対な反応が、とても居心地悪く、私の中のもう一人の誰かが「この2件の差は忘れちゃ駄目だ」とチクチク言いつづけてる感じなんだ。何か、嫌な予感がするんだ。


銀行員のコメントは、自己顕示欲をこじらせた感じが不快だった。誰に何を言われても満たされない劣等感を、ただ、ただ、ぶちまけただけだった。「鬱はイメージに実体が殺される病」という名言を発したのは、赤坂真理だったと思うが、それを思い出した。まさにイメージ先行で、「俺は一流にはなれず、熱い三流にもなれなかった」という自虐が、彼の最大限の自己表現だった。冷静に上から目線で切り捨てて言うならば、スペック自慢大会以外のコミュニケーションを拒否した、陳腐で可哀想な人だった。そういう印象を、私は持った。
彼は、確かに、現実以上の何かに苦しんでいたが、私は、掛ける言葉を思いつけない。何を言っても、陳腐な説教で返されそうな気がする。彼が、周囲のアドバイスや、周囲とのコミュニケーションよりも、自分の説教を愛しているのは、明白だった。


後者のカレー屋さんのツイートは、日本語は変だったけど、率直で、伝わる言葉だった。お客さんが来ない怖さ、どうすればいいのか分からない心細さを、的確に表現していた。ランチのお客が2組しか来なかった時、残ったカレーを目の前に、店のオーナーは本物の不安と恐怖を感じるんだ、ということが、良く伝わった。読んでいるギャラリーの心の中の「何かのスイッチ」を刺激したのだろう。今日、店は行列が出来ていたそうだ。ネット上で伝わる彼の「いい人ぶり」が本物かどうかは、検証できないが、味と人柄が本物なら、彼は日本で生き残ることができるだろうし、そうであってほしい、という印象を私は持った。願望込みの同情と共感なんだよね。銀行員の態度には、この種の「見ている側の願望」の入る余地は無かった。


後者のカレー屋さんだって、本当は嫌なヤツかもしれない。twitterなんか使わず、黙って電車に飛び込んで自殺したら、ボロカスに言われたに違いない。ネパールではなく、韓国や中国だったら、どうだったのか? あるいは、出身が日本の栃木とか、島根や大阪だったら、どうだったのか? …あんまり考えたくない展開だなぁ。